とくになし

読んでください

青春クィア映画における「ずらし」の戦略──『ハーフ・オブ・イット』(2020)と『Love,サイモン』(2018)

*昨年のアメリカ現代映画の講義に提出したレポートに加筆修正を加えたものです。

 

──

 近い時期に制作・公開されたこの2作品は、両方ともティーンの恋愛を描いた、Coming of Ageもの青春映画である。しかし二つの映画には、『キャロル』(2015)がメロドラマというジャンルに対して行ったような、「青春映画」のおきまりの枠をずらす要素がある。それは、登場人物がクィアであることによってもたらされるものであるといえよう。

 クィアティーンを描いたアメリカ映画としては、同時期には『Love, サイモン』と同様ゲイのティーンエイジャーのカミングアウトを扱った『アレックス・ストレンジラブ』 (2018)、『ある少年の告白』(2018)、またレズビアンティーンエイジャーの恋愛を描くコメディ『ブックスマート』(2019)などがある。また、青春映画の外では、ロマコメというジャンルを踏まえ制作・マーケティングがなされている『ハピエスト・ホリデー 私たちのカミングアウト』(2020)や『シングル・オール・ザ・ウェイ』(2021)がクリスマスに相次いで公開された。

 これらの映画の中には、『ブックスマート』や『シングル・オール・ザ・ウェイ』など性的マイノリティ当事者の登場人物がすでにカミングアウトを済ませ、周囲からの理解をすでに得ている映画もある一方で、友達や家族へのカミングアウト自体を主題として扱うものも多い。『Love, サイモン』はその典型的な例である。身分や立場を偽るというプロットはそもそもティーン・ロマコメにおいて古典的であり、シェイクスピア十二夜』のアダプテーションである『アメリカン・ピーチパイ』(2006)や、『スパイダーマン2』(2004)では主人公の二重のアイデンティティが主人公の焦がれる相手との障害となる一方で、二つの矛盾が一致することがロマンスの成就として描かれ、プロット上の葛藤が解消される山場となっている[1]。『Love, サイモン』は、そのようなティーンエイジャーの恋愛を描いた映画のプロット上の特徴を受け継ぐものだといえるだろう。

 

『Love, サイモン』のプロット分析

 『Love, サイモン』のプロットについてもうすこし具体的に考えてみよう。主人公であるサイモンは、自分がゲイであることを除いて、自分がどこにでもいる普通の高校生であると観客に向かって語り掛ける。プロットはサイモンがゲイであることを親友や家族に伝えられないという葛藤と、顔を知らないブルーとの恋愛が中心となっている。

 この映画は、発端・中盤・結末の三幕構成というハリウッドの伝統にのっとっている。第一幕は、高校の掲示板で匿名でゲイであることをカミングアウトしたブルーとのメールのやり取りではじまり、同級生のマーティンが偶然そのメールを見てしまうところで幕を閉じる。第二幕はサイモンがブルーとのメールを通して親交と恋愛感情を深め、ブルーが誰なのかを探る旅が描かれるのと並行して、メールをスクリーンショットしていたマーティンにアビーとの仲を取り持つよう脅迫される。ブルーへの恋心を募らせる中で、マーティンがもしそのメールを流せば二人の関係が壊れてしまうと思ったサイモンは、マーティンに協力する。サイモンの計画によってマーティンとアビーは親密になり、サイモンはもともとアビーと親密であったニックを引きはなすべく、リアとニックの中を取り持とうとする。幼馴染のリアはサイモンに好意を抱いていたが、サイモンはそれをニックへの片思いであると思い込んでいた。

 サイモンの想像のなかのブルーは、ラップトップの青っぽいライティングに照らされる暗い部屋の中にいる。サイモンに対して身元を明かすことができないブルーは、薄暗い部屋とライティングによってクローゼットの中にいることが示唆されている。

全編を通じて問題となるカミングアウトについて、サイモンは「ゲイだけがするのは不公平だ/ストレートもすればいい」と、友人たちが「自分はヘテロセクシュアルだ」と彼らの親にカミングアウトする場面を想像する。ここでヘテロセクシュアルによるカミングアウトという構図の転換が描かれているのは興味深いが、サイモンの想像上のそれは、単にヘテロセクシュアルホモセクシュアルの対立を入れ替えたものにとどまっている。

全校生徒の前でアビーに告白をするという、ロマコメのお決まりである大胆なジェスチャーを行い玉砕したマーティンは、サイモンのメールを高校の掲示板に流出させる。このアウティングによって、サイモンから「いつ・誰に伝えるか」を自分で決めるというカミングアウトの機会が奪われ、完全に調和した解決はもたらされなくなっている。ここが第二幕の山場であり、重要な転換点となっている。この点は、身分を明かすことがすぐさまロマンスの成就となり、プロット上の解決となっている『十二夜』や『アメリカン・ピーチパイ』とは「ずれて」いる。

 第三幕においては、自らのセクシュアリティを伝える「カミングアウト」という行為は、ティーンエイジャーなら誰もがもつ秘密を打ち明け自己をさらすという行為に一般化される。そこには、普遍的な「隠された真の自己」というものが想定されているように見える。『Love, サイモン』は、確かに普通の高校でゲイとしてカミングアウトすることの困難を描いている。ゲイであることをアウティングされた後の第三幕において、サイモンは高校でハラスメントを受け、両親や友人との関係もぎこちないものになる。しかし、このようなカミングアウトに伴う特有の経験や葛藤は、第三幕では「真の自己」として一般化されるとともに、ロマコメお決まりの大胆なジェスチャーによってクライマックスにおいて解消される。

 LGBTQシネマとハッピーエンディングについてのThe Gardiansのこの記事は『Love, サイモン』のこのクライマックスのシーンについて、

 

Love, Simon delivered a far more traditionally buoyant finale which dared to allow a same-sex couple the sort of glossy, applaud-worthy kiss that we’ve seen from our straight counterparts for years.[2]

 

と、このクライマックスが典型的な異性間ロマコメを同性同士に置き換えることに成功していると褒めたたえている。サイモンの想像の中では暗い部屋にいたブルーが、ブラムとして文字通り人込みからカム・アウトし、観覧車に乗る二人の顔を周囲のイルミネーションが明るく照らす。観覧車の頂点で二人はキスをし、歓声をあびる。しかしここでは、ブラム自身のカミングアウトが犠牲とされているように思える。すなわち、「いつ・誰に伝えるか」というブルーの権利は、ロマコメに必要な大胆なジェスチャーの前に無効化され、顧みられない。この点において、『Love, サイモン』はロマコメというジャンルをずらし切れていないように思われる。

 

 『ハーフ・オブ・イット』におけるカミングアウト——クローゼットと光

 『ハーフ・オブ・イット』もまた、偽りのアイデンティティとその解消を中心にプロットが構成されている。主人公のエリー・チュウは学校一の美人であるアスターに特別な思いを抱いているが、同級生ポールから、アスターへのラブレターの代筆を頼まれる。お金が必要になったエリーは、仕方なくポールのふりをしてアスターに手紙を書く。エリーはポールとの友情を築いてゆく。ポールとアスターは二度のデートで親密になる。しかしアスターが言葉を交わしていた相手は実際にはエリーであり、アスターはポールに好感をもつが、同時に違和感を抱いている。アスターはポールがエリーにキスする場面を目撃してしまい、ポール/エリーとアスターの関係は破綻する。

 その後、教会でアスターが彼氏トリッグからの公開プロポーズを了承する場面において、皆の前でそれを遮ったエリーと、それを見て立ち上がったポールの言葉によってアスターは真実を知る。すなわち、カミングアウトが行われる。プロット上のカミングアウトの位置を探る前に、まずは撮影技法に注目してクローゼットとカミングアウトを考えたい。

 『Love, サイモン』においては、サイモンの想像上のブルーが薄暗い部屋にいることによってクローゼットが暗示されていた。『ハーフ・オブ・イット』では、エリーがサイモンのように自分のセクシュアリティに葛藤したり、両親や友人にカミングアウトすべきかと苦悩するような直接的な描写はない。しかし、エリーはまったくクローゼットから自由というわけではない。しばしば壁に囲まれた空間によってエリーのいるクローゼットが暗示されていたのではないかと考える。さらにそこでは、光/暗闇という二分法が用いられていた。

 映画は全編を通して薄暗い。野外のシークエンスであっても、基本的にスクウェア・フェイミッシュという田舎町の陰気さを表すように、スクリーンはどんよりと曇った物憂げな様子を映している。そんな中で、エリーが父親と過ごす、狭いけれど居心地のよさそうなリビングルームはぼんやりとオレンジの光に照らされており、またエリーが多くの時間を過ごす駅長室も同様に、灯りがあり、外が暗闇の時はとりわけ光に満ちた空間として映されている。ポールが外から見上げるエリーの部屋も同様である。

エリーが作曲した歌の中でも「無事でありますように/夜は人を苦しめ混乱させるから/私たちは道に迷う/導いてもらうために」と、夜の暗闇と外とを結びつける。さらに、死別した妻について語るエリーの父は、「妻が死んで暗闇に落ちた」という。暗闇は、快適な区切られた空間の外の世界を示すものとして機能している。すなわち、『Love, サイモン』とは反対に、明りによってクローゼットの内側が暗示されているといってよい。

 しかし、そのような二分法はしばしばかく乱される。その一つが、最後の、エリーが大学進学のため列車に乗る場面である。車窓を眺める複数の人のショットが挿入される。ここでは、車内は暗い一方で、外の世界は光に満ちており、すべての人がその光を窓越しに浴びている。ここでは外の世界が光として描かれ、外の世界へと飛び出してゆくエリーの姿が希望をもって描かれている。

 このように、『ハーフ・オブ・イット』は光の扱い方の効果によって、クローゼットの外/内という境界を維持するのではなく、反転させることによってその区分をずらしていた。では、クローゼットからカミングアウトするシーンはどのように描かれているのだろうか。

 エリーの後で立ち上がったポールは、彼の家族を含めた皆の前でこう述べる。「愛は偽らない/俺にはわかる/偽ってたから/数か月だけだが——/最悪だった/本当の自分を偽るのはつらいことだ/一生ずっと/他人を演じる」と語るポールの言葉は、短い期間であるとはいえ、サイモンが13歳から4年間感じていたセクシュアリティへの葛藤と驚くほど似ている。ポールのカミングアウトは、アウティングによってカミングアウトをはく奪されたサイモンよりもよりうまく遂行されているといえるだろう。ポールはゲイではなくヘテロセクシュアルの男性として描かれているが、ここでは『Love, サイモン』で想像上のものとして描かれたヘテロセクシュアルによるカミングアウトが実際に行われているのである。

 さらに、ポールの「カミングアウト」はエリーを促す。「私も偽ってた/ウソをついていた」「愛は寛大でも親切でも寛容でもない」「愛は厄介/おぞましくて利己的/それに…/大胆」。これらの告白によって、アスターはエリーが手紙の相手であったことを理解する。皆の前で告白を行うというのは、ロマコメのお約束の大胆なジェスチャーであるが、ここで語られることはセクシュアリティを公言するというのとも、愛を直接叫ぶというのでもない。言葉のやり取りを積み重ねられてきた二人だからこそわかるやり方で、エリーは結果的に真実をカミングアウトしたが、これらの言葉はあからさまではなく、何も知らない他者にはおそらく読み解くことのできないものである。エリーは教会の薄暗い屋根裏から、ステンドグラスの張られた光あふれる聖堂へとカム・アウトするのだが、それは内から外へとひとっ飛びに出ていくようなものではなく、無数の境界をずらしていくような営みとして描かれている。

 

山場の「ずらし」

 『Love, サイモン』において最後のブラムとサイモンとのキスシーンは、ブラムのカミングアウトによって映画のクライマックスとなっていた。アウティングとブラムのカミングアウトは、『ハーフ・オブ・イット』においては、先に述べた教会での「カミングアウト」と、エリーのアスターへのキスに対応するといえるだろう。では、両者にはどのような違いがあるのか。

 教会でのカミングアウトのあと、エリーはアスターを訪れ、二人は言葉を交わす。アスターが「違う形ならよかった/違う私なら…」というと、エリーは「そんなのありえない/私だって本当にそうか確信はない」と返す。アスターは「見てなさい/数年以内に私は確信を持ってる」と宣言する。ここで語られるのは、今とは違う形の現在であるのと同時に、未来への展望でもある。二人とも、セクシュアリティを含め自分なにものであるか、自信がない。二人は別々の道を進みかけるのだが、エリーが去りかけた道を戻り、アスターにキスをして、「数年で会おう」と告げる。観客はアスターの照れたような笑みを見ることができるが、エリーはおそらくその顔をみないまま、街を離れる。したがって、ここでのキスシーンはロマンスの成就でも、プロット上の解決でもない。「山場」は数年後の未来へと投げ出されているのである。

 

まとめ

『ハーフ・オブ・イット』はプロットにおいても光の効果の使い方においても、薄暗いクローゼットの中と外という二分法をもとにした『Love, サイモン』とは異なったやり方でカミングアウトを描いていた。『Love, サイモン』において、カミングアウトは真の自己をさらけだすという意味があったが、『ハーフ・オブ・イット』においては、そもそもエリーすら「本当にそうか確信はない」のであって、前提となるような「真の自己」自体が存在していない。『ハーフ・オブ・イット』はセクシャリティをめぐる真の自分/偽りの自分という二元論に頼るのではなく、様々な境界をずらしていくようなやり方で、一人のティーンエイジャーの物語を語っている。このような「ずらし」は、登場人物がLGBTQであるということによってももたらされるが、『ハーフ・オブ・イット』は、それを意識的におこなっている。クィア・シネマにおいてはこの「ずらし」が重要であるといえるだろう。

 

[1] サム・ライミスパイダーマン』シリーズにおける二重のアイデンティティと葛藤については、藤井仁子「デジタル時代の柔らかい肌——『スパイダーマン』シリーズに見るCGと身体」を参照。ここでは真の自己/仮面という区別はあいまいになっていることが指摘されている。

[2] LGBT cinema still needs more happy endings | Film | The Guardian(2022/02/07閲覧)