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現実と夢──シャーウッド・アンダーソンにおける性のコード

※昨年の英米文学とLGBTの講義で提出したレポートに加筆修正を加えたものです。

 

 シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』において、短編「手」(Hands)は「グロテスクな人々の本」を除いた最初の短編である。同性愛者(・小児性愛者)として責め立てられ、住んでいた町から追放された男の過去と現在を描いたこの短編は、また彼の暴かれたセクシュアリティは、『ワインズバーグ・オハイオ』のなかでどのように位置づけることができるだろうか。本稿では、まずこの短編を、『ワインズバーグ・オハイオ』の後半に位置する短編「女教師」(The Teacher)の類似した語りと比較し、性のコードがいかに恣意的に適用されるかを確認する。次に、「手」における「夢」に注目し、アンダーソンがそれらの概念と、「手」の中に描かれる同性愛をどのように位置づけているかを考察する。

 

1.「手」と「女教師」における性のコード

 

「手」と「女教師」の物語上の類似は一読しただけでもいくつか指摘できる。ウィング・ビドルバウムもケイト・スイフトも(元)教師であり、また二人ともかつてはそれぞれペンシルバニアとニューヨークというワインズバーグの街の外で暮らしていた。『ワインズバーグ・オハイオ』全編にわたってグロテスクな町の人々はジョージにむかってその過去を明かし、抱えている真実を語りたがるが(ジョージの彼らへの態度は多少冷淡である)、ウィングとケイト・スイフトもまたジョージの中になにか特別なものを見出し、それぞれの人生から得たものを授けようとする。

 次の引用は、それぞれ二つの短編から抜き出したものである。

 

手はそろりそろりと忍び出てくると、ジョージ・ウィラードの両肩にかかった。……演説の途中で一息つくと、ウィング・ビドルバウムはしばらくの間じっとジョージ・ウィラードの顔をみつめた。眼がキラキラ光っていた。また両手をあげて青年の肩を撫でようとした(20)

 

人生を理解する才能を持ち合わせているらしく思えるこの青年に、何としても人生の扉をひらいてやりたいという気持ちにかられた。その情熱があまりに強烈だったために、それは何となく肉体的な感じをおびてきた。今日もまた彼女は両手を青年の肩にかけ、その体を自分のほうに向きなおらせた。部屋の薄明りのなかで、眼が光っていた。(205)

 

ジョージ・ウィラードの肩に手をかける、その年長者の眼はなぜか両者とも光っている。この一致は偶然ではないだろう。両者とも、いわば教育者としての衝動にかられジョージに触れるが、「女教師」においてその衝動は突き詰めると性的な衝動や欲望と区別がつかなくなると語られる。両者とも、ジョージに理解されることを望む。『ワインズバーグ・オハイオ』に遍在する性的要素は、「性への欲望であり、かつ親密さや共感への渇望であり、同時に他の何かへの欲望の記号でもある」(藤森 131)と指摘される通り、ここでのウィングとケイトのそれぞれの欲望は、性的なものであり同時にそうではない何かである。また、手はこれらの欲望を媒介する象徴的な記号であるといってよい。

 この両者の短編にはもう一つ共通するモチーフがある。それが拳である。「手」において、次のようにウィングは拳を使う。

 

ジョージ・ウィラードに話しかけるとき、ウィング・ビドルバウムは、拳をかためてテーブルや家の壁をたたいた。そうすれば一段と気が休まるからだった。野外を二人で歩いている最中にしゃべりたいという欲求が起こってくると、木の切り株とか柵のいちばん上の横板をみつけて、それをせわしげにたたきながら、あらためて安堵して話しだすのだった。(18)

 

この拳というモチーフは、「女教師」では2度出てくる。一つ目は、ジョージに体を許しそうになったケイト・スウィフトが我に返りジョージを殴る「二つの固いこぶし」(206)、そして、この短編と対になる「神の力」におけるカーティス・ハートマン牧師の、窓ガラスを突き破った「血のしたたるこぶし」(同)である。ジョージを誘惑したあと拳をたたきつけ、部屋に戻ったケイト・スイフトは裸でベッドに身を投げ出し、「両手のこぶしで枕をたたいた」(192)。その後「キリストの前に立つ少年」のように祈る彼女を覗き見していた牧師は、「神の力が私にのりうつったから、このこぶしで[窓ガラスを]たたきわってやったんだ」(194)とジョージに告げる。

 拳は、性的衝動を抑え込む代償として用いられているようである。拳でテーブルや壁、切り株や柵の横板を叩いたウィングの気が休まるのは、衝動を拳をふるうという行為によってやわらげたことの表れであろう。これはウィングの手がみせる表情の一つであり、同じものをケイトと牧師が見せていることは注目に値する。

 また、ジョージとの出来事の後、ある種の宗教的な画で短編が終わることも、この二人の人物の物語に共通する。ウィングの場合、それを見るのは語り手である。このような瞬間は、伝統的にアンダーソン批評において「エピファニーの瞬間」と言い表される(高田 45)。ケイト・スイフトの場合は、「神の力」において牧師が覗き見る女が裸で祈る画で、牧師はこれを「神がある女の体をかりてそのお姿を見せてくださった」(193)と、まさしく神の顕現としてとらえている。

 ここまで見てきたように、「手」と「女教師」は、登場人物の背景、ジョージとの関係、結末の描かれ方と様々な点において類似している。「女教師」においてケイト・スイフトがジョージを拒否したことは、従来の批評ではケイトの教師としての自制心や、精神分析的な性的抑圧によるものと解されてきたが、藤森は「自分の欲望が通常の性関係のコードに適合しないこと」(142)にケイトが気が付いたことが拒絶の理由であるとしている。ケイトがジョージを誘惑することは、「通常の性関係のコード」に合致するものであるが、それはケイトの欲望とはズレがあった。

ウィングがジョージのもとを去ったのは、手とそれにまつわる記憶が直接の理由であるが、あえていえばウィングの場合、手を通して行われる彼の欲望の表現が、性規範のコードを逸脱したものとして解釈されたことに端を発する。手は記号であるがゆえに、どのように読むかは他者に委ねられている。ウィングは同性愛者としてカム・アウトされたが、実際にウィングが同性愛者(小児性愛者)であるかは関係がなく、彼のふるまいがそう遡及的に解釈されたことが問題である。

ただし、そのようにふるまいを性的なものかそうでないものか、さらにそれが「正常な」性的行動か、逸脱したスキャンダラスなものかを規定する、(物語内外の)読み手に備わるコードは、時代や場所によって異なる。古代ギリシアでは教育者と少年の同性愛関係はむしろ推奨された。そのように考えたとき、性の正常・逸脱を規定するコードに縛られた現実と対照的なのが、ウィングの見る夢である。

 

2.夢と現実

 

 アンダーソンは『ワインズバーグ・オハイオ』の冒頭、「グロテスクな人々についての本」では、本書で描かれる人間たちについてこう書いている。

 

一人の人間が一つの真実を自分のものにして、これこそわが真実といって、それにもとづいて自分の人生を生きようとするとたんに、彼はグロテスクな人間に化してしまい、彼が抱きしめている真実も虚偽になってしまう、というのである。(13)

 

人々がそれぞれの真実を抱き、これに固執することによってグロテスクな人間が生まれるのだという。『ワインズバーグ・オハイオ』の住人はもれなくこの、グロテスクな人間である。

この宣言の直後に位置する短編、「手」で語られるウィングも例外ではない。「手は彼の特徴になり、彼の名声のもとになった。同時にその手のために、そうでなくてもグロテスクでうさんくさい人物が、なおさらグロテスクになった」(18)とあるように、ウィングにおいては手が彼をグロテスクな存在にしている。その手の動きとは、語り手が語る彼のペンシルバニアでの教師時代からわかるように、「ある種の夢を生徒たちの心に吹き込もうとする、その教師の努力の一部」(22)であり、彼の愛撫は「少年たちの疑念も不信の念も」消し去り、「みんな夢見心地に」するものである。

 ここでウィングが手での愛撫によって生徒たちに埋め込む「夢」とは実際、何だろうか。森岡(103)によれば、ウィングの夢は、「孤独」(Loneliness)においてイーノックが直面する「金銭とか性(セックス)とかいろいろな意見などという現実(アクチュアリティ)」(209)に対比される、一つの観念や理想にとらわれすぎたグロテスクさを表すものである。

 政治・経済・性という現実/アクチュアリティは、しかし実際には「現実」であるとはいえない。ジェンダー批評やマルクス主義批評を持ち出すまでもなく、アンダーソンがその観念を信奉しているわけではないことは、アンダーソン自身の経験への回想からも明らかである。『ワインズバーグ・オハイオ』のインスピレーションとなったシカゴでの生活で、男装するレズビアンの女性といった「新しい」ジェンダーセクシュアリティを見たアンダーソンは、それまでのビジネスという世界の覇権である男性性、男らしさを問い直したという(前田 154-155)。

ここには今ある現実を唯一無二、絶対の真実とはしないアンダーソンの認識が読み取れる。ウィングが夢から描き出した世界は、現実とは異なる性のコードをもつ社会である。「グロテスクな人々の本」でうたわれたように、そもそも真実とは個々のうちに宿るもので、外部に存在するものではない。このように考えるとき、ウィングの「夢」とは、単なる理想主義以上の意味を持つ。

 

結論

 

『ワインズバーグ・オハイオ』において、「手」と「女教師」という似たスキャンダラスな物語を別の人物によって繰り返すことによって、同じ行為が異なって読まれうることを確認した。それは我々が持つ性のコードのためである。このようなコードは「現実」としてテクストのいたるところに入り込むが、それに対しグロテスクな人間がもつ「真理」は現実を絶対的なものとして認めない。アンダーソンはグロテスクな人間を共感をもって描き出すことによって、この「現実」に対し夢を提示した。夢は現実を転覆するようなものではないが、共感をもって美しく描きだされている。

 

文献表

アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ小島信夫・浜本武雄訳、講談社、1997年。

高田賢一・森岡裕一編『シャーウッド・アンダソンの文学』ミネルヴァ書房、1999年。