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現実と夢──シャーウッド・アンダーソンにおける性のコード

※昨年の英米文学とLGBTの講義で提出したレポートに加筆修正を加えたものです。

 

 シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』において、短編「手」(Hands)は「グロテスクな人々の本」を除いた最初の短編である。同性愛者(・小児性愛者)として責め立てられ、住んでいた町から追放された男の過去と現在を描いたこの短編は、また彼の暴かれたセクシュアリティは、『ワインズバーグ・オハイオ』のなかでどのように位置づけることができるだろうか。本稿では、まずこの短編を、『ワインズバーグ・オハイオ』の後半に位置する短編「女教師」(The Teacher)の類似した語りと比較し、性のコードがいかに恣意的に適用されるかを確認する。次に、「手」における「夢」に注目し、アンダーソンがそれらの概念と、「手」の中に描かれる同性愛をどのように位置づけているかを考察する。

 

1.「手」と「女教師」における性のコード

 

「手」と「女教師」の物語上の類似は一読しただけでもいくつか指摘できる。ウィング・ビドルバウムもケイト・スイフトも(元)教師であり、また二人ともかつてはそれぞれペンシルバニアとニューヨークというワインズバーグの街の外で暮らしていた。『ワインズバーグ・オハイオ』全編にわたってグロテスクな町の人々はジョージにむかってその過去を明かし、抱えている真実を語りたがるが(ジョージの彼らへの態度は多少冷淡である)、ウィングとケイト・スイフトもまたジョージの中になにか特別なものを見出し、それぞれの人生から得たものを授けようとする。

 次の引用は、それぞれ二つの短編から抜き出したものである。

 

手はそろりそろりと忍び出てくると、ジョージ・ウィラードの両肩にかかった。……演説の途中で一息つくと、ウィング・ビドルバウムはしばらくの間じっとジョージ・ウィラードの顔をみつめた。眼がキラキラ光っていた。また両手をあげて青年の肩を撫でようとした(20)

 

人生を理解する才能を持ち合わせているらしく思えるこの青年に、何としても人生の扉をひらいてやりたいという気持ちにかられた。その情熱があまりに強烈だったために、それは何となく肉体的な感じをおびてきた。今日もまた彼女は両手を青年の肩にかけ、その体を自分のほうに向きなおらせた。部屋の薄明りのなかで、眼が光っていた。(205)

 

ジョージ・ウィラードの肩に手をかける、その年長者の眼はなぜか両者とも光っている。この一致は偶然ではないだろう。両者とも、いわば教育者としての衝動にかられジョージに触れるが、「女教師」においてその衝動は突き詰めると性的な衝動や欲望と区別がつかなくなると語られる。両者とも、ジョージに理解されることを望む。『ワインズバーグ・オハイオ』に遍在する性的要素は、「性への欲望であり、かつ親密さや共感への渇望であり、同時に他の何かへの欲望の記号でもある」(藤森 131)と指摘される通り、ここでのウィングとケイトのそれぞれの欲望は、性的なものであり同時にそうではない何かである。また、手はこれらの欲望を媒介する象徴的な記号であるといってよい。

 この両者の短編にはもう一つ共通するモチーフがある。それが拳である。「手」において、次のようにウィングは拳を使う。

 

ジョージ・ウィラードに話しかけるとき、ウィング・ビドルバウムは、拳をかためてテーブルや家の壁をたたいた。そうすれば一段と気が休まるからだった。野外を二人で歩いている最中にしゃべりたいという欲求が起こってくると、木の切り株とか柵のいちばん上の横板をみつけて、それをせわしげにたたきながら、あらためて安堵して話しだすのだった。(18)

 

この拳というモチーフは、「女教師」では2度出てくる。一つ目は、ジョージに体を許しそうになったケイト・スウィフトが我に返りジョージを殴る「二つの固いこぶし」(206)、そして、この短編と対になる「神の力」におけるカーティス・ハートマン牧師の、窓ガラスを突き破った「血のしたたるこぶし」(同)である。ジョージを誘惑したあと拳をたたきつけ、部屋に戻ったケイト・スイフトは裸でベッドに身を投げ出し、「両手のこぶしで枕をたたいた」(192)。その後「キリストの前に立つ少年」のように祈る彼女を覗き見していた牧師は、「神の力が私にのりうつったから、このこぶしで[窓ガラスを]たたきわってやったんだ」(194)とジョージに告げる。

 拳は、性的衝動を抑え込む代償として用いられているようである。拳でテーブルや壁、切り株や柵の横板を叩いたウィングの気が休まるのは、衝動を拳をふるうという行為によってやわらげたことの表れであろう。これはウィングの手がみせる表情の一つであり、同じものをケイトと牧師が見せていることは注目に値する。

 また、ジョージとの出来事の後、ある種の宗教的な画で短編が終わることも、この二人の人物の物語に共通する。ウィングの場合、それを見るのは語り手である。このような瞬間は、伝統的にアンダーソン批評において「エピファニーの瞬間」と言い表される(高田 45)。ケイト・スイフトの場合は、「神の力」において牧師が覗き見る女が裸で祈る画で、牧師はこれを「神がある女の体をかりてそのお姿を見せてくださった」(193)と、まさしく神の顕現としてとらえている。

 ここまで見てきたように、「手」と「女教師」は、登場人物の背景、ジョージとの関係、結末の描かれ方と様々な点において類似している。「女教師」においてケイト・スイフトがジョージを拒否したことは、従来の批評ではケイトの教師としての自制心や、精神分析的な性的抑圧によるものと解されてきたが、藤森は「自分の欲望が通常の性関係のコードに適合しないこと」(142)にケイトが気が付いたことが拒絶の理由であるとしている。ケイトがジョージを誘惑することは、「通常の性関係のコード」に合致するものであるが、それはケイトの欲望とはズレがあった。

ウィングがジョージのもとを去ったのは、手とそれにまつわる記憶が直接の理由であるが、あえていえばウィングの場合、手を通して行われる彼の欲望の表現が、性規範のコードを逸脱したものとして解釈されたことに端を発する。手は記号であるがゆえに、どのように読むかは他者に委ねられている。ウィングは同性愛者としてカム・アウトされたが、実際にウィングが同性愛者(小児性愛者)であるかは関係がなく、彼のふるまいがそう遡及的に解釈されたことが問題である。

ただし、そのようにふるまいを性的なものかそうでないものか、さらにそれが「正常な」性的行動か、逸脱したスキャンダラスなものかを規定する、(物語内外の)読み手に備わるコードは、時代や場所によって異なる。古代ギリシアでは教育者と少年の同性愛関係はむしろ推奨された。そのように考えたとき、性の正常・逸脱を規定するコードに縛られた現実と対照的なのが、ウィングの見る夢である。

 

2.夢と現実

 

 アンダーソンは『ワインズバーグ・オハイオ』の冒頭、「グロテスクな人々についての本」では、本書で描かれる人間たちについてこう書いている。

 

一人の人間が一つの真実を自分のものにして、これこそわが真実といって、それにもとづいて自分の人生を生きようとするとたんに、彼はグロテスクな人間に化してしまい、彼が抱きしめている真実も虚偽になってしまう、というのである。(13)

 

人々がそれぞれの真実を抱き、これに固執することによってグロテスクな人間が生まれるのだという。『ワインズバーグ・オハイオ』の住人はもれなくこの、グロテスクな人間である。

この宣言の直後に位置する短編、「手」で語られるウィングも例外ではない。「手は彼の特徴になり、彼の名声のもとになった。同時にその手のために、そうでなくてもグロテスクでうさんくさい人物が、なおさらグロテスクになった」(18)とあるように、ウィングにおいては手が彼をグロテスクな存在にしている。その手の動きとは、語り手が語る彼のペンシルバニアでの教師時代からわかるように、「ある種の夢を生徒たちの心に吹き込もうとする、その教師の努力の一部」(22)であり、彼の愛撫は「少年たちの疑念も不信の念も」消し去り、「みんな夢見心地に」するものである。

 ここでウィングが手での愛撫によって生徒たちに埋め込む「夢」とは実際、何だろうか。森岡(103)によれば、ウィングの夢は、「孤独」(Loneliness)においてイーノックが直面する「金銭とか性(セックス)とかいろいろな意見などという現実(アクチュアリティ)」(209)に対比される、一つの観念や理想にとらわれすぎたグロテスクさを表すものである。

 政治・経済・性という現実/アクチュアリティは、しかし実際には「現実」であるとはいえない。ジェンダー批評やマルクス主義批評を持ち出すまでもなく、アンダーソンがその観念を信奉しているわけではないことは、アンダーソン自身の経験への回想からも明らかである。『ワインズバーグ・オハイオ』のインスピレーションとなったシカゴでの生活で、男装するレズビアンの女性といった「新しい」ジェンダーセクシュアリティを見たアンダーソンは、それまでのビジネスという世界の覇権である男性性、男らしさを問い直したという(前田 154-155)。

ここには今ある現実を唯一無二、絶対の真実とはしないアンダーソンの認識が読み取れる。ウィングが夢から描き出した世界は、現実とは異なる性のコードをもつ社会である。「グロテスクな人々の本」でうたわれたように、そもそも真実とは個々のうちに宿るもので、外部に存在するものではない。このように考えるとき、ウィングの「夢」とは、単なる理想主義以上の意味を持つ。

 

結論

 

『ワインズバーグ・オハイオ』において、「手」と「女教師」という似たスキャンダラスな物語を別の人物によって繰り返すことによって、同じ行為が異なって読まれうることを確認した。それは我々が持つ性のコードのためである。このようなコードは「現実」としてテクストのいたるところに入り込むが、それに対しグロテスクな人間がもつ「真理」は現実を絶対的なものとして認めない。アンダーソンはグロテスクな人間を共感をもって描き出すことによって、この「現実」に対し夢を提示した。夢は現実を転覆するようなものではないが、共感をもって美しく描きだされている。

 

文献表

アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ小島信夫・浜本武雄訳、講談社、1997年。

高田賢一・森岡裕一編『シャーウッド・アンダソンの文学』ミネルヴァ書房、1999年。

青春クィア映画における「ずらし」の戦略──『ハーフ・オブ・イット』(2020)と『Love,サイモン』(2018)

*昨年のアメリカ現代映画の講義に提出したレポートに加筆修正を加えたものです。

 

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 近い時期に制作・公開されたこの2作品は、両方ともティーンの恋愛を描いた、Coming of Ageもの青春映画である。しかし二つの映画には、『キャロル』(2015)がメロドラマというジャンルに対して行ったような、「青春映画」のおきまりの枠をずらす要素がある。それは、登場人物がクィアであることによってもたらされるものであるといえよう。

 クィアティーンを描いたアメリカ映画としては、同時期には『Love, サイモン』と同様ゲイのティーンエイジャーのカミングアウトを扱った『アレックス・ストレンジラブ』 (2018)、『ある少年の告白』(2018)、またレズビアンティーンエイジャーの恋愛を描くコメディ『ブックスマート』(2019)などがある。また、青春映画の外では、ロマコメというジャンルを踏まえ制作・マーケティングがなされている『ハピエスト・ホリデー 私たちのカミングアウト』(2020)や『シングル・オール・ザ・ウェイ』(2021)がクリスマスに相次いで公開された。

 これらの映画の中には、『ブックスマート』や『シングル・オール・ザ・ウェイ』など性的マイノリティ当事者の登場人物がすでにカミングアウトを済ませ、周囲からの理解をすでに得ている映画もある一方で、友達や家族へのカミングアウト自体を主題として扱うものも多い。『Love, サイモン』はその典型的な例である。身分や立場を偽るというプロットはそもそもティーン・ロマコメにおいて古典的であり、シェイクスピア十二夜』のアダプテーションである『アメリカン・ピーチパイ』(2006)や、『スパイダーマン2』(2004)では主人公の二重のアイデンティティが主人公の焦がれる相手との障害となる一方で、二つの矛盾が一致することがロマンスの成就として描かれ、プロット上の葛藤が解消される山場となっている[1]。『Love, サイモン』は、そのようなティーンエイジャーの恋愛を描いた映画のプロット上の特徴を受け継ぐものだといえるだろう。

 

『Love, サイモン』のプロット分析

 『Love, サイモン』のプロットについてもうすこし具体的に考えてみよう。主人公であるサイモンは、自分がゲイであることを除いて、自分がどこにでもいる普通の高校生であると観客に向かって語り掛ける。プロットはサイモンがゲイであることを親友や家族に伝えられないという葛藤と、顔を知らないブルーとの恋愛が中心となっている。

 この映画は、発端・中盤・結末の三幕構成というハリウッドの伝統にのっとっている。第一幕は、高校の掲示板で匿名でゲイであることをカミングアウトしたブルーとのメールのやり取りではじまり、同級生のマーティンが偶然そのメールを見てしまうところで幕を閉じる。第二幕はサイモンがブルーとのメールを通して親交と恋愛感情を深め、ブルーが誰なのかを探る旅が描かれるのと並行して、メールをスクリーンショットしていたマーティンにアビーとの仲を取り持つよう脅迫される。ブルーへの恋心を募らせる中で、マーティンがもしそのメールを流せば二人の関係が壊れてしまうと思ったサイモンは、マーティンに協力する。サイモンの計画によってマーティンとアビーは親密になり、サイモンはもともとアビーと親密であったニックを引きはなすべく、リアとニックの中を取り持とうとする。幼馴染のリアはサイモンに好意を抱いていたが、サイモンはそれをニックへの片思いであると思い込んでいた。

 サイモンの想像のなかのブルーは、ラップトップの青っぽいライティングに照らされる暗い部屋の中にいる。サイモンに対して身元を明かすことができないブルーは、薄暗い部屋とライティングによってクローゼットの中にいることが示唆されている。

全編を通じて問題となるカミングアウトについて、サイモンは「ゲイだけがするのは不公平だ/ストレートもすればいい」と、友人たちが「自分はヘテロセクシュアルだ」と彼らの親にカミングアウトする場面を想像する。ここでヘテロセクシュアルによるカミングアウトという構図の転換が描かれているのは興味深いが、サイモンの想像上のそれは、単にヘテロセクシュアルホモセクシュアルの対立を入れ替えたものにとどまっている。

全校生徒の前でアビーに告白をするという、ロマコメのお決まりである大胆なジェスチャーを行い玉砕したマーティンは、サイモンのメールを高校の掲示板に流出させる。このアウティングによって、サイモンから「いつ・誰に伝えるか」を自分で決めるというカミングアウトの機会が奪われ、完全に調和した解決はもたらされなくなっている。ここが第二幕の山場であり、重要な転換点となっている。この点は、身分を明かすことがすぐさまロマンスの成就となり、プロット上の解決となっている『十二夜』や『アメリカン・ピーチパイ』とは「ずれて」いる。

 第三幕においては、自らのセクシュアリティを伝える「カミングアウト」という行為は、ティーンエイジャーなら誰もがもつ秘密を打ち明け自己をさらすという行為に一般化される。そこには、普遍的な「隠された真の自己」というものが想定されているように見える。『Love, サイモン』は、確かに普通の高校でゲイとしてカミングアウトすることの困難を描いている。ゲイであることをアウティングされた後の第三幕において、サイモンは高校でハラスメントを受け、両親や友人との関係もぎこちないものになる。しかし、このようなカミングアウトに伴う特有の経験や葛藤は、第三幕では「真の自己」として一般化されるとともに、ロマコメお決まりの大胆なジェスチャーによってクライマックスにおいて解消される。

 LGBTQシネマとハッピーエンディングについてのThe Gardiansのこの記事は『Love, サイモン』のこのクライマックスのシーンについて、

 

Love, Simon delivered a far more traditionally buoyant finale which dared to allow a same-sex couple the sort of glossy, applaud-worthy kiss that we’ve seen from our straight counterparts for years.[2]

 

と、このクライマックスが典型的な異性間ロマコメを同性同士に置き換えることに成功していると褒めたたえている。サイモンの想像の中では暗い部屋にいたブルーが、ブラムとして文字通り人込みからカム・アウトし、観覧車に乗る二人の顔を周囲のイルミネーションが明るく照らす。観覧車の頂点で二人はキスをし、歓声をあびる。しかしここでは、ブラム自身のカミングアウトが犠牲とされているように思える。すなわち、「いつ・誰に伝えるか」というブルーの権利は、ロマコメに必要な大胆なジェスチャーの前に無効化され、顧みられない。この点において、『Love, サイモン』はロマコメというジャンルをずらし切れていないように思われる。

 

 『ハーフ・オブ・イット』におけるカミングアウト——クローゼットと光

 『ハーフ・オブ・イット』もまた、偽りのアイデンティティとその解消を中心にプロットが構成されている。主人公のエリー・チュウは学校一の美人であるアスターに特別な思いを抱いているが、同級生ポールから、アスターへのラブレターの代筆を頼まれる。お金が必要になったエリーは、仕方なくポールのふりをしてアスターに手紙を書く。エリーはポールとの友情を築いてゆく。ポールとアスターは二度のデートで親密になる。しかしアスターが言葉を交わしていた相手は実際にはエリーであり、アスターはポールに好感をもつが、同時に違和感を抱いている。アスターはポールがエリーにキスする場面を目撃してしまい、ポール/エリーとアスターの関係は破綻する。

 その後、教会でアスターが彼氏トリッグからの公開プロポーズを了承する場面において、皆の前でそれを遮ったエリーと、それを見て立ち上がったポールの言葉によってアスターは真実を知る。すなわち、カミングアウトが行われる。プロット上のカミングアウトの位置を探る前に、まずは撮影技法に注目してクローゼットとカミングアウトを考えたい。

 『Love, サイモン』においては、サイモンの想像上のブルーが薄暗い部屋にいることによってクローゼットが暗示されていた。『ハーフ・オブ・イット』では、エリーがサイモンのように自分のセクシュアリティに葛藤したり、両親や友人にカミングアウトすべきかと苦悩するような直接的な描写はない。しかし、エリーはまったくクローゼットから自由というわけではない。しばしば壁に囲まれた空間によってエリーのいるクローゼットが暗示されていたのではないかと考える。さらにそこでは、光/暗闇という二分法が用いられていた。

 映画は全編を通して薄暗い。野外のシークエンスであっても、基本的にスクウェア・フェイミッシュという田舎町の陰気さを表すように、スクリーンはどんよりと曇った物憂げな様子を映している。そんな中で、エリーが父親と過ごす、狭いけれど居心地のよさそうなリビングルームはぼんやりとオレンジの光に照らされており、またエリーが多くの時間を過ごす駅長室も同様に、灯りがあり、外が暗闇の時はとりわけ光に満ちた空間として映されている。ポールが外から見上げるエリーの部屋も同様である。

エリーが作曲した歌の中でも「無事でありますように/夜は人を苦しめ混乱させるから/私たちは道に迷う/導いてもらうために」と、夜の暗闇と外とを結びつける。さらに、死別した妻について語るエリーの父は、「妻が死んで暗闇に落ちた」という。暗闇は、快適な区切られた空間の外の世界を示すものとして機能している。すなわち、『Love, サイモン』とは反対に、明りによってクローゼットの内側が暗示されているといってよい。

 しかし、そのような二分法はしばしばかく乱される。その一つが、最後の、エリーが大学進学のため列車に乗る場面である。車窓を眺める複数の人のショットが挿入される。ここでは、車内は暗い一方で、外の世界は光に満ちており、すべての人がその光を窓越しに浴びている。ここでは外の世界が光として描かれ、外の世界へと飛び出してゆくエリーの姿が希望をもって描かれている。

 このように、『ハーフ・オブ・イット』は光の扱い方の効果によって、クローゼットの外/内という境界を維持するのではなく、反転させることによってその区分をずらしていた。では、クローゼットからカミングアウトするシーンはどのように描かれているのだろうか。

 エリーの後で立ち上がったポールは、彼の家族を含めた皆の前でこう述べる。「愛は偽らない/俺にはわかる/偽ってたから/数か月だけだが——/最悪だった/本当の自分を偽るのはつらいことだ/一生ずっと/他人を演じる」と語るポールの言葉は、短い期間であるとはいえ、サイモンが13歳から4年間感じていたセクシュアリティへの葛藤と驚くほど似ている。ポールのカミングアウトは、アウティングによってカミングアウトをはく奪されたサイモンよりもよりうまく遂行されているといえるだろう。ポールはゲイではなくヘテロセクシュアルの男性として描かれているが、ここでは『Love, サイモン』で想像上のものとして描かれたヘテロセクシュアルによるカミングアウトが実際に行われているのである。

 さらに、ポールの「カミングアウト」はエリーを促す。「私も偽ってた/ウソをついていた」「愛は寛大でも親切でも寛容でもない」「愛は厄介/おぞましくて利己的/それに…/大胆」。これらの告白によって、アスターはエリーが手紙の相手であったことを理解する。皆の前で告白を行うというのは、ロマコメのお約束の大胆なジェスチャーであるが、ここで語られることはセクシュアリティを公言するというのとも、愛を直接叫ぶというのでもない。言葉のやり取りを積み重ねられてきた二人だからこそわかるやり方で、エリーは結果的に真実をカミングアウトしたが、これらの言葉はあからさまではなく、何も知らない他者にはおそらく読み解くことのできないものである。エリーは教会の薄暗い屋根裏から、ステンドグラスの張られた光あふれる聖堂へとカム・アウトするのだが、それは内から外へとひとっ飛びに出ていくようなものではなく、無数の境界をずらしていくような営みとして描かれている。

 

山場の「ずらし」

 『Love, サイモン』において最後のブラムとサイモンとのキスシーンは、ブラムのカミングアウトによって映画のクライマックスとなっていた。アウティングとブラムのカミングアウトは、『ハーフ・オブ・イット』においては、先に述べた教会での「カミングアウト」と、エリーのアスターへのキスに対応するといえるだろう。では、両者にはどのような違いがあるのか。

 教会でのカミングアウトのあと、エリーはアスターを訪れ、二人は言葉を交わす。アスターが「違う形ならよかった/違う私なら…」というと、エリーは「そんなのありえない/私だって本当にそうか確信はない」と返す。アスターは「見てなさい/数年以内に私は確信を持ってる」と宣言する。ここで語られるのは、今とは違う形の現在であるのと同時に、未来への展望でもある。二人とも、セクシュアリティを含め自分なにものであるか、自信がない。二人は別々の道を進みかけるのだが、エリーが去りかけた道を戻り、アスターにキスをして、「数年で会おう」と告げる。観客はアスターの照れたような笑みを見ることができるが、エリーはおそらくその顔をみないまま、街を離れる。したがって、ここでのキスシーンはロマンスの成就でも、プロット上の解決でもない。「山場」は数年後の未来へと投げ出されているのである。

 

まとめ

『ハーフ・オブ・イット』はプロットにおいても光の効果の使い方においても、薄暗いクローゼットの中と外という二分法をもとにした『Love, サイモン』とは異なったやり方でカミングアウトを描いていた。『Love, サイモン』において、カミングアウトは真の自己をさらけだすという意味があったが、『ハーフ・オブ・イット』においては、そもそもエリーすら「本当にそうか確信はない」のであって、前提となるような「真の自己」自体が存在していない。『ハーフ・オブ・イット』はセクシャリティをめぐる真の自分/偽りの自分という二元論に頼るのではなく、様々な境界をずらしていくようなやり方で、一人のティーンエイジャーの物語を語っている。このような「ずらし」は、登場人物がLGBTQであるということによってももたらされるが、『ハーフ・オブ・イット』は、それを意識的におこなっている。クィア・シネマにおいてはこの「ずらし」が重要であるといえるだろう。

 

[1] サム・ライミスパイダーマン』シリーズにおける二重のアイデンティティと葛藤については、藤井仁子「デジタル時代の柔らかい肌——『スパイダーマン』シリーズに見るCGと身体」を参照。ここでは真の自己/仮面という区別はあいまいになっていることが指摘されている。

[2] LGBT cinema still needs more happy endings | Film | The Guardian(2022/02/07閲覧)

レダと白鳥と「女が悪い」言説──『MEN 同じ顔の男たち』感想

エクス・マキナ』のアレックス・ガーランド監督、『Men 同じ顔の男たち』を見た。ネタバレあり。

 

ジェシー・バックリー演じる女性ハーパーは、とある郊外の館をひとり訪れる。モラハラ気味の旦那(カニエ・ウェスト似)が目の前で飛び降りて死んでしまったことがトラウマで、奮発して田舎町でゆっくりすることを決めたのだった。屋敷の主人はすこし田舎者で気味が悪いが、閑静な近隣もちいさなグランドピアノのあるうつくしい屋敷も気に入ったハーパー。しかし、全裸の男の乱入をきっかけに畳みかけるように奇妙な男たちがハーパーを襲う…。

 

・まあ『エクス・マキナ』のアレックス・ガーランドだし、タイトルがMenだしでフェミニズム的な主題があるのは予想していたけど、終わってみると正直どうとらえていいのか困惑した。確かに、女性にとって男性なんてこんなもの、という言い方はできるものの、どちらかというとハーパーの自己の後悔とそれを乗り越える物語として見た方が私にとってはしっくりくる。いや、勿論その経験は女性であることとは切り離せないものなのだけど。でもハーパーが男たちから聞く言葉は完全に外部から投げかけられたものではなく彼女が一度なりとも考えたことだろうし(それ自体が外的な規範の内面化なのだろうけど)、ハーパーのやったことの痕跡はしっかりといつまでも残る。憑りつかれた苦悩する内面を映画の世界に反映させつつ因果を背負うジェシー・バックリーはある意味でわたしのヒーローなのだ(が、これは伝わらなくてもいい(と思いつつ書いている))。ジェシー・バックリーパラノイア映画というジャンルがあるとして、しかしそのパラノイアは単に妄想とは切り捨てられない、という感じ。

 

・回想での夫との会話シーン。180度ラインを無視した、横顔が同じ方向を向く切り返し。ハーパーと夫のすれ違いを見せるとともに、横顔は鳥なんだ、と思ったらそのあとで鳥のモチーフがでてきたのでよっしゃーと思った。ヒッチコックのサイコみたいな。柵に刺さった夫の死に方ははやにえを思わせるので、最初ハーパーが鳥のイメージだと思ったが、途中司祭がイェイツの「レダと白鳥」を引用するその中でperpetratorなのは鳥でありゼウス、つまり男の側である。

 

・ゼウスが少女レダをレイプし孕ませたあと、そこから破壊と混沌が産まれる。作中で引用されていたのがこのスタンザ、“A shudder in the loins engenders there/The broken wall, the burning roof and tower/And Agamemnon dead.”

レダは絶世の美女ヘレンを産み、彼女の美しさがトロイア戦争の原因となる、とされる。つまり、アガメムノンが戦場でむごく死んだのも、国が荒廃したのも、すべて女が悪いというわけである。

 

・とここまで書いて、やっぱりMenは「ぜんぶ女が悪い」に抵抗する映画であるといえると思った。男がMenであるうちは、Man/Womanの対話もできない。終盤の例のシーンはイェイツの詩の映像化である。ハーパーは、自分自身内面化してもいる「女が悪い」の様々かつ実は同一の言説・テクストを、皆別様でありかつ同じ顔をした男たちを通して浴びせられる。最後にハーパーが浮かべる笑みは、彼女の勝利を意味するのだと思った。

アリス・ウォーカー「誰のものにもならないで」

アリス・ウォーカーの「誰のものにもならないで」(Be nobody's darling)

葉月陽子訳『続・母の庭を探して』の「誰のものにもならないで」より。初出は詩集『革命的なペニチュア』から。

「寄る辺ないままでいなさい」の原文が気になったので、原文と自分の翻訳をつける。誤訳が多い…。

 

アリス・ウォーカー

「誰のものにもならないで」

 

Be nobody’s darling;

Be an outcast.

Take the contradictions

Of your life

And wrap around

You like a shawl,

To parry stones

To keep you warm.

 

誰のものにもならないで

のけ者でいて。 ➡「寄る辺ないままでいなさい」

人生の

矛盾を受け入れて、

それであなたを

ショールのように包むの

飛んでくる石を躱して

あなたを温めておくために。

 

Watch the people succumb

To madness

With ample cheer;

Let them look askance at you

And you askance reply.

 

人々が狂気に

屈するのを

喜びとともに眺め 喜んで狂気に屈する

彼らには横目で見させておくの

あなたも横目に返して。

 

Be an outcast;

Be pleased to walk alone

(Uncool)

Or line the crowded

River beds

With other impetuous

Fools.

 

のけ者でいて。

堂々と一人で歩くの

(かっこよくなくても)

さもなくば混雑した

川岸で ×川底

ぎゃあぎゃあとした

愚か者たちと並ぶことになる。

 

Make a merry gathering

On the bank

Where thousands perished

For brave hurt words

They said.

 

川岸で ×土手

陽気な集まりを作りなさい

何千ものひとが死んだ

というのも勇敢さは言葉を傷つけたから ×痛みにみちた勇敢な言葉を口にしたから

そう彼らは言った。

 

Be nobody’s darling;

Be an outcast.

Qualified to live

Among your dead.

 

誰のものにもならないで

のけ者でいて。

死んだ者の中で

生きる資格を手に入れて。

【追記あり】『ブーリン家の姉妹』(2008)のアンドリュー・ガーフィールドについて

『ブーリン家の姉妹』(2008)にアンドリュー・ガーフィールドは登場しない。

正確には、編集過程で登場シーンをすべてカットされたということらしい。唯一アンドリューの名前が出ているエンドロールによれば、Francis Weston(フランシス・ウェストン)という役を演じていた。

ネット上を探しても出てくるのはこの画像1枚のみ。(IMDbより転載)

Scarlett Johansson, Jim Sturgess, and Andrew Garfield in The Other Boleyn Girl (2008)

史実でのフランシス・ウェストンは、アンとの不倫とソドミーの罪で訴えられ、兄ジョージと同時に(他数名とともに)処刑された、ヘンリー8世の枢密院のメンバーであり王とも親しい友人であった(wiki情報)。

2001年に出版された原作では、ジョージはフランシスに熱を入れあげていて、セクシュアルなシーンも多くあるらしい(未読)。(原作ではジョージはアンともヤってるらしいので、別物といえばそうなのだが…)

2006年段階の脚本にはきちんと登場シーンが書かれていた。台詞はないが、どんな役だったのか気になる!という人のために、フランシスの名前が登場するシーンを書き留めておく。スクリプトhttps://imsdb.com/scripts/Other-Boleyn-Girl,-The.html参照。訳はちょっと短縮してたりするので、できれば自分で確かめてほしい。またフランシスの名前が出てくるシーン以外のところはきちんと読めていないので、後からまた追加するかも。さらっと読んだ感じ、時系列がいじられているところはありそう

 

 

はじめにフランシスが脚本上で登場するのは、ヘンリー8世のお城で催される仮面舞踏会のシークエンスだ。

SIR THOMAS BOLEYN stalking the party. Ever watchful. On duty. Vigilant. He is distracted by the sight of... His son, GEORGE BOLEYN, surrounded by FRANCIS WESTON and his FRIENDS.GEORGE is clearly in his element. Laughing in delight. Very fond and intimate with FRANCIS WESTON..
用心深くパーティを見張っているサー・トマス。彼は己の息子…ジョージ・ブーリンがフランシス・ウェストンやその友達に囲まれている光景に気を取られる。ジョージは明らかに気安い様子で、楽しそうに笑っている。フランシス・ウェストンと親密な様子だ…

トマス・ブーリン(アンたちのお父さん)が舞踏会で子供たちに目を光らせる中、フランシスとジョージの親密さに父は引っ掛かりを覚える。

続いても似たようなシーンがある。メアリからヘンリーと肉体関係を持ったという話を聞きながら、息子がボーイフレンドと親密なのについ気を取られるお父さん。

GEORGE and FRANCIS WESTON return from riding together. The sound of laughter as they dismount, and hand their horses to the stable-boys.. SIR THOMAS watches as GEORGE and FRANCIS walk back to the palace together. There's something in their manner, the intimacy between them..
ジョージとフランシス・ウェストンが相乗りから戻ってくる。馬から降り、それぞれの馬を馬丁の少年たちに手渡しながら響くあの笑い声…サー・トマスはジョージとフランシスが共に宮殿に歩いて戻るのを見る。彼らの様子や親密さには、何か気になるところがある…

ジェーン・パーカーとの結婚は、フランシスとの親密さを目の当たりにした危機感というバックグラウンドがあった。しかし、そんなこんなて無理やり決められたジョージの結婚式にもフランシスは登場する。

A formation dance is in progress. At the centre of it: GEORGE dances with a radiant, triumphant JANE PARKER. GEORGE's eyes meet those of FRANCIS WESTON across the room.
フォーメーション・ダンスが進行中。中心には、晴れやかに勝ち誇った顔のジェーン・パーカーと踊るジョージ。ジョージの目が、部屋の向こう側のフランシス・ウェストンのそれと合う。

個人的にこのシーンが一番好き。ジョージの結婚式で、ジェーンと踊りながらこっそり目を合わせる二人。見たかったなー!

 

このあとはしばらくフランシスの名前は登場せず、後半になってアンの2人目の妊娠を祝うパーティの席で、メアリの夫ウィリアム・スタフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)が逃げたというジョージとメアリの会話のシーンで、フランシスがジョージと一緒にいることが書かれている。この会話は物語にとって重要ではないかと思うのだけどカットされているということは、やっぱりフランシスの登場シーン、つまりジョージのフランシスとの同性間ロマンスというサブプロットはまとめてカットするという意向(必要?)があったのだと思う。

そしてフランシスと行動を共にするジョージを見て、結婚に失敗した!と絶望するジェーンの姿。

その後は本編と同じ、流産し危機感を抱いたパドメ……じゃなかった、アンがジョージとの性交渉を求め、それをジョージの妻ジェーンが目撃してしまう。あれという間に二人は罪に問われる。史実ではフランシスもここで処刑されるが、どうやらこの脚本はそこまでは踏み込まず、処刑されるジョージを見つめるフランシス、というところで彼の出番は終わっている。

脚本の時点でもフランシスにセリフはなく、本筋にも関連しないといえばしない。だけどアンドリューのファンとしては見たかったよー!2008年ごろといえばソーシャル・ネットワークやわたしを離さないでよりもさらに前、ドクター・フーにゲスト出演していたのが2007年だからそのあたりだ。撮影期間は知らないけれど公開時期的にはBOY Aとレッド・ライディングの間。何がいいたいかって、20代のアンドリュー・ガーフィールドは大変にカワイイので後世のためにも映像を残すべきだ。

YouTubeなどでみつかる削除シーンをみても今のところアンドリューは見つけられていない。残念だ。見かけたら教えてください。

 

 

※2022/12/23 追記

最近(といっても5月)BBCラジオ1のインタビューで、Ali Plumbとの会話のなかで『ブーリン家の姉妹』について言及していたことに気がついた。インタビューはここで聞ける→https://t.co/0H5W9XK1oT (5分あたり)

要約すると

 

・ジム・スターとの情事をめぐるサブプロットがあったんだけどなぜか最終版にはまるまる残らなかった

・初めての映画の現場。ずっとジムスターとスカヨハを見てるだけの仕事。エディ・レッドメインも一緒だった

・セットに向かう車の中で憧れのマーク・ライランスと一緒だった時間が地獄だった

 

とのこと。ばかばかしいコスチュームきてセットにいるのは場違いに思えたというほんとうにド新人のときだったんだな。ド新人だから簡単にカットされちゃったんだろうけど。しかし見たかった。映像はどこかに残っていないのか!?

 

 

フェミニズム映画としてはあんまり上手くないのではーー『ガンパウダー・ミルクシェイク』感想

※ネタバレあり

 

カレン・ギラン主演のガールズアクション。カレン・ギラン演じるサムは、娘の元から姿を消した母スカーレット(レナ・ヘディ)の後ろ姿を追いかけるように、ファームという男たちの組織の中で駒として人を殺して生きている。ファームの金を盗んで逃げた会計士を追えという指令をうけ男を撃つのだが、彼は誘拐された娘のために金が必要だった。自分と似た境遇の8歳の女の子を助けるために、サムは再会した母や、「司書たち」の助けを借りて、この戦いを切り抜けようとする。

 

ジョン・ウィックももはやジャンルなんだと思わされるような裏社会の殺し屋が武器を集めてひたすら敵を返り討ちにする話。子供を守りながら戦うのや、さらにここが重要なのですが、既存のジャンルを女性キャラでやり直そうという姿勢は『ハーレイ・クインの華麗なる逆襲』や『チャーリーズ・エンジェル』に通じる軽快さとエンパワメントを感じる。のだけど、これはこの二つよりも面白くなかった。

 

・本は読んだ方がいい

映画『ガンパウダー・ミルクシェイク』予告編|3.18(fri)全国公開 - YouTube

 

予告にもあるが、図書館はサムたちに武器を提供する場になっている。銃を取り出すのはジェイン・オースティンヴァージニア・ウルフ、予告にはないがシャーロット・ブロンテといったイギリスの女性作家。これはサムの母スカーレットがイギリス人なのが理由だと思うが、脈絡がない。フェミニズムに興味があって文学に興味があれば誰でもあっとなる名前だけど、あっとなって、それで終わりだったのが残念。

女性作家の本から武器を得るというメタフォリカルな意味もわかるのだけど、ウルフは反戦を主張した作家だし、なにより本をくり抜いて銃を入れているのが気に入らない。本は読んだ方がいい。それよりも、男性作家による主流の作品から取り出すことにした方が、男性優位の構造の中でその権力を盗み自分のものとする女たちが書けるし、男性中心的なキャノンは読まなくてもいいと宣言することにもなるのでは。(本当は読んだ方がいいと思うけど、「読まなくてもいい」の態度はこの映画に合うと思う)

アガサ・クリスティだけじゃなく、ウルフもオースティンも読んだ方がいいと思う。

 

・マデリンとフローレンス、スカーレットとアナ・メイの関係について

スカーレットを演じたレナ・ヘディとアナ・メイを演じたアンジェラ・バセットは、二人の関係について話し合っていて、レナ・ヘディは二人が「確実に関係があった」「少しばかり傷ついた恋人たちにみえるように、ふたりのあいだに緊張があるべき」と思っていたといっている。(https://www.denofgeek.com/movies/the-queerness-of-gunpowder-milkshake/?amp)

同様に、ミシェル・ヨー演じるフローレンスがマデリンに囁くシーンについても、監督は同じ記事で「絶対に何かがあった」と言っており、長年積み上げてきた二人の関係を、この短い親密なシーンで表そうとしているのがわかる。仄めかすだけというよりは、短いシーンだけど前面に出そうとしている。少なくとも監督のナヴォット・パプシャドの言葉ではそうだ。

しかしそれがどれだけ観客に伝わっているかは疑問だ。彼女たちの親密さは、「クスクス笑う姉妹たち」の親密さとして回収されてしまっているように見えてならない。

 

シスターフッド

クライマックスのダイナーのシーンで、エミリーを救うため、サムはマック・アリスターと対面する。そこでこの男が自分はフェミニストだと自称し、「娘が産まれて嬉しかった、しかしたくさん娘が産まれて家の中でクスクスと騒ぐようになると、女は理解できないと思った。息子が生まれ、息子のことは理解できた」などと話す。こいつの話してることは単なるホモソーシャルから離れたくないよ〜の赤ちゃんの泣き声だから無視していいとして、しかしサムたちがやってるのは、男を殺して家をこのクスクス笑いで満たすことだ。

最後にエミリーが、サムの面倒を見、さらに言えば長年にわたって利用していた男ネイサンのもとを訪ね、脅すシーンがある。そこでエミリーが持っているのは若草物語。序盤に出てきた作家がみなイギリス作家だったのと比較すると、ここでアメリカの作家を持ち出したのは意図的だろう。ラストのロードムービーっぽいカットにボブディランの音楽というのも。それになにより、オースティンの「高慢と偏見」同様、若草物語は姉妹の話だ。

高慢と偏見も、若草物語も、姉妹たちはクスクスしてるだけじゃない。今よりもさらに女の選択肢が限られている中で、結婚や出産といったイベントに翻弄されている。さらにブロンテもウルフにも姉妹がいるし、男の兄弟と同じ教育が受けられなかったという話も聞いたことがある。サムたちが、さまざまな世代が集まった家族であるのと同時に、姉妹でもあるのには意味がある。

なんだけど、この辺の要素がいまいち調和していないように感じる。もちろんシスターフッドのなかには親子の間の愛も、レズビアンの性愛も、レズビアンなのか明言されない「何か」も含まれるだろう。シスターフッドが連帯して男たちの支配に立ち向かう女同士の絆を言い表すとすればこの映画はまさしくシスターフッドだしフェミニズムだと思う。だけど、それがあまりうまく描けてるとは思わない。家の中を女の子のクスクス笑いで満たしたからといって、何かが改善されることはない。それ自体はいいことだし、見るのは楽しいけど、それで終わりになってしまう。

とはいえアクションシーンはもっさりしていたけど面白く、特に病院での両者とも満身創痍ななかでの泥沼アクションはよかった。銃を持つレナ・ヘディや鎖を持つミシェル・ヨーもかっこいい。かっこいい女たちのタランティーノみたいな血みどろアクション(ちょっともっさりはしてる)目当てなら、満足できる映画ではある。

Mornig Song 翻訳

シルヴィア・プラス『モーニング・ソング』の翻訳です。テクストはここから

https://www.poetryfoundation.org/poems/49008/morning-song-56d22ab4a0cee

生まれてきた赤ちゃんについての詩。

 

Love set you going like a fat gold watch.

The midwife slapped your footsoles, and your bald cry   

Took its place among the elements.

愛があなたを動かす。太った金時計みたいに。

産婆があなたの足の裏をひっぱたいて、

あなたの勇敢な泣き声が、原素たちのなかに居場所を得たのです。

Our voices echo, magnifying your arrival. New statue.

In a drafty museum, your nakedness

Shadows our safety. We stand round blankly as walls.

わたしたちの声の響き、それがあなたの到来を賛美しました。新しい像。

隙間風のある博物館で、あなたのはだかんぼは私たちの安全に影を落とす。

I’m no more your mother

Than the cloud that distills a mirror to reflect its own slow

Effacement at the wind’s hand.

私はあなたの母親ではない

ゆっくりと風の手によって拭い去られる

己を反射する鏡を抽出するその雲ほどには。

All night your moth-breath

Flickers among the flat pink roses. I wake to listen:

A far sea moves in my ear.

夜中あなたの蛾の息が

平らなピンクの薔薇たちの間でちらちら震える。わたしは起きて聞く

遠い海が私の耳の中で動くのを。

One cry, and I stumble from bed, cow-heavy and floral

In my Victorian nightgown.

Your mouth opens clean as a cat’s. The window square

ひとつの泣き声、わたしはベッドからよろめいて抜け出す、牛のように重く、花のような

私のヴィクトリア朝時代のナイトガウンの中の。

あなたの口が猫ほどにも清潔に開く。窓は四角く

Whitens and swallows its dull stars. And now you try

Your handful of notes;

The clear vowels rise like balloons.

そのくすんだ星たちを白く、浅くしている。そして 今 あなたは

たくさんの音色を奏でようとする

風船のように澄んだ母音がたちあがる。